ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

t100

千手村から千手町へ現在の川西町が、川西地域四カ町村の合併で発足したのは、昭和三十一年九月一日であり、その中核的存在の千手がそれ以前において、千手村から千手町へと町政施行に踏み切ったのが昭和九年八月一日のことである。。千手村の町政施行一部には反対がある千手村では工事関係のため人口が増し努(かたがた)皇太子殿下御降誕記念として来る七月一日から町政炉施きたいと県知事に対して認可申請中であったが今般村民五十余名は知事に対し町政施行は村民を苦難におとし入れるものとして反対陳情をなしたので事態は紛糾し丸山村長、川崎県議は去る二日出県、千葉知事、牧地方課長に面会、反対者の言ひ分が一、村税未納者がこの際盤理を行はれるに反対しその細民煽動によるとと二、反対陳情に署名し果、予定通り「千手村」は「千手町」へと衣更えするζとになる。。祝・千手町政施行将来は産業都市たれ八月一日から千手へ町政が施かれるζとになった。千手人士の喜びはさることながら本郡としてれたそのはらからが芽出度く慈に元服してすべての点で誼を深かうとするを得るのだから-フれしい。口古来千手村は遠権櫛比(れんたんしっぴ)、川西地方の商緩を把握し、又産業の中枢でもあった。一時千手堂町と云ひ千手たる者は一家二名の名も北清二百蒲の如き一郡を出したり宋青成年者六町を有してゐる処さへもあの儲値なきものあるのに単(ひと)り十であることを述べ調査の臥町一町と云ふのは外型上速やかに町政一筋行の認上柳か寂家の感なきを得可方を陳情した。なかったのである。今回《昭和9年6月5日》千手町の実現は一面郡のこのように一部には反体面を向上させたもので対の動きもあったようであり我十白町としてもあるが、大勢は町政施行『千手町から十日町聞にへと進んで行く。その結:::』と僅謡にまで結ば10町村と云った事さへある。殊に昭和六年、鉄道省直轄の信電工事開始されるや電気事務所の設置を見、国家的のこの大工事の中心地となって人口は頓(とみ)に増え、商業界も一段と活気を呈してゐる。同町の現勢は戸数七百、人口四千二百、町政のすでに施かれている瀬浪、名立、高浜等を人口においても、戸数においてもはるかに凌ぎ、能生、岩船と比肩するの地位にあるのである。:::以下略・::・(ゆたか生)《昭和9年7月初日》筆者の「ゆたか生」とは誰のζとか、今のと乙ろ不明である。そして同じ日の二面に、町制施行関係の行事についての記事が掲載される。。重なる喜び村を拳げての歓喜万歳祝は一一日間行ふ町になる千手皇太子殿下御降誕記念に町政施行を申請中、去る二十三日付を以て許可となった千手村では吉報到るや役場では早速会村に告知状を発し村民は挙げて万歳を叫んだ。日嗣の皇子の御降誕と重なるζの喜ぴを記念するため八月一一一両日にわたって盛んな奉祝、祝賀を為すことにしたがまず一日は午前七時千手神社において町政施行報告祭学挙げ間十一時から小学校において御臨伊誕奉祝式、同十一時半から町政施行祝賀式を仔ひこれに引きつずいて一戸一名参列の下に祝宴会秒侵すことになった。さらに午後から万歳祝ひに移りまた二日も万歳祝ひで祝意を表すことになり皐くも青年達は仮装に苦心して居り十日町から遠征や企て冶ゐる者もありこの二日は同地空前の賑はひとはならう。《昭和9年7月初日》ζうしてJ重なる喜ぴに千手町は盛り上がったけれども、翌八月五日付の記事は意外にも平穏なものであり、記事の分量も少なかった。142(よしかず)