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概要

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昔の十日町訪問記-H明治四十一(一九O八)年創刊、以来九十年、日本にもたぐい稀な山内家三代発行により一貫した歳月を経た本紙は十日町の歴史をたどる貴重な証人である。有難いことにその全部が当代の手でマイクロフィルム伯、復刻縮刷版が発行されている。やたらとかさばり重たい本で持ち運びには骨がおれるが、その昔十日町・妻有地域で暮らしていた人々の日々と世相がことこまかに記録されていて興味深く、読みはじめると面白くてやめられない。ひとりで面白がっているのはもったいない話なので『プレイバック十日町新聞』と銘打って復刻版の中を行きつ戻りつし、興味ある昔のこぼれ話を拾い上げ、再生してみたい。今年で平成も二桁になり「降る雪や昭和も遠くなりにけり」となった。明治、大正といえば霧のかなたののある用語は適当に書き改める。原文に興味のある方は図書館で読むか、縮刷版を購入してほしい。さてその昔、十日町とはどのような町であったのだろうか。大正十一(一九二二)年は今から七十六年前、初めて十日町を訪ねた旅人のガイドでタイムトラベル}つ。吏に小千谷に汽車を見捨てたるの際、乗合自動車にでも投じて一気に乗り付けるものは知らず、六星の里程を腕車でも駆らむには寂しさの感は更に変じて一種不安とも雷-つべき情を催ずに至ろう。「この山奥にでも文明の空気の通うている思いだが、その時々の記事や広告の中にあざやかによみがえる先祖様たちの活躍と世相をなつかしみ、それを書き残してくれた健筆の記者たちに感謝したい。引用記事はなるべく原文を損ねず、読みやすいように整理し、理解しにくい表現や仮名遣い、さしさわりしてみよう。。外来人の自に映じたる十日町・当地方の地理に通じざる他郷人の始めて十日町方面に来るものは来迎寺駅頭信越線に別れ、燐寸箱的軽鉄により璽昼たる山岳の聞を次第々々に奥深く運ばるhの時、必ずや或る寂しみを感ぜざるはなかろ1町があろうか」と狐にでも佑かされた感に襲わる、からである。《大正日・6・お》マムこの時は上越線も飯山線も開通していないので、東京より十日町へはJR信越本線に乗車、長野直江津を経由、来迎寺駅で岡田正平経営のマッチ箱のような魚沼鉄道(現在はパス路線)に乗換えて終点西小千谷で下車、駅前の旅館にあがりこんでまず一服。旅仕度を調え直し之から、T型フォードの乗合自動車か腕車つまり人力車に乗りこみ、雪峠から岩沢橋を渡り、寂しさと不安にゆられながら文明果つる山奥の十日町入りしたものである。小千谷から十日町まで乗合自動車で一時間あまり、人力車では上り四時間はかかった。荷物が多ければ別に荷ソイの人足を頼む必要がある。自動車が出現するまでは人力車のほかに乗合馬車で行く優雅な時代のひと時もあった。昭和六年に上越線清水トンネルが開通するまではこのルlトが東京十日町聞の唯一の旅路であった。(この項続く)(兎庵)8