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概要

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九十年前の本町通り本紙の明治四十二年五月り'など得難い情報も少な五日から六月十五日まで九くない。固にわたって連載された本町通りのような商業地「十日町評判記」は当時のは,ロンドンに三代相伝の十日町を知るために大変参家なしHという諺があるよ考になる。うに盛衰興亡がはげしい。内容は、現在の本町一丁自から六丁目までが当時は原町、一之町、ニ之町、一一一之町、四之町、五之町と呼ばれ、東側に百五軒、西側に百十三軒、計二百十八軒が街並みをつくっていた。その一軒毎の特長をユーモラスな寸評で紹介している。なかには意味不明のものもあるが、例えばダ根市、戊申詔書的人物なりHゃ,回畑屋高等旅館行儀作法正しきe也,旬街座間口十二問、奥行き廿二聞な三之町東側・霧島屋角屋敷には建物が足らぬなり・桝(ま煙車(たばこ)す}五吸うにもマッチいらぬ也・矢和当町豪家(根棒)の跡屋敷なり(註)縮問屋松村屋根津五郎右衛門家が得意なり豪家の主人若年なり電話の架設熱心なり刺身と口取りが上手なり滞婿が揃って円満なり4三之町西側。7](野-郵便局-一誠館-大明治三十三年六月の大火のあと十年間に本町通りは五一勿の家が入れ替わったが、明治四十二年から九十年の聞にさらに半分以上の家が変わっている。その様子を中心部の本町三丁目の二十七軒でご覧いただきたい。紋七売家の札が貼られたなり姉婿当時後見な円ν商売と将碁の外に他念なき也林長岡の渡安からョ\佳上げたなり-小園田岡売薬より義太夫-山竹屋-山田屋中3-碇(い.渡辺歯制医が出かり)張中なり屋・桝屋女将は豪家の令嬢なり女将は将碁が大好きなり兄さん一年志願兵望むなり-市村屋-時計屋蕪波石-月見屋-鋳物師(いもり)・近藤-桃林堂-大-田原屋蕪-村竹館オて当時水野の帳方なり本郡七校長の一人なり荷物の出入り瀕繁なり若夫婦両度の湯治無効なり石部堅吉犠たま!るなり間坂イ云協越社の看板小さきなり表具の糊が強わきなり兄弟長らく塩沢なり兄さんおめかと別宅なり米屋の傍ら金貸しなり泊まるお客は地方の紳士(ゼントルマン)なり(笠間俊)茂10