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概要

t100

大正三年三月最初で最後の卒業式都立十日町実業事校明治時代の終わりから町大火であった。全町を大正初年にかけて、現在灰憶にした焼けあとの中の県立テクノスクールのから、復興のさきがけと前身でもあった十日町実して創立したのが郡立染業学校古いラ中魚沼郡立の学校があったζとはあまり知られていない。なぜならば、この学校は明治四十四年(一九一一)に設立され、大正三年(一九一四)に廃校になるという僅か三年間しか存在しなかった短命な学校であったからである。この学校の設立と廃止は、数奇な運命にあやつられていた。ζとのはじまりは、明治三十三年(一九O O)六月十日に発生した十日喜一郎先生であった。名実共に充実した学校なので明治四十年(一九O七)県立に移管されたが、これがアダになって県が財政難から県立学校の統廃合を行ったあおりで明治四十三年(一九一O )廃校になってしまった。学校が無くなったの三年後の大正三年に念願の県立十日町染織講習所の開設によって、実業学校はその使命伊終わることになったのである。《大正3年3月日日》。事恥証書授輿式同校第一回の卒業証書授輿に、震終を兼ねたる卒業式は昨十四日午前十織学校であった。優秀な若い技術者秒養成するために血のにじむような地元負担が拠出して学校を作ったのである。まさに"十日町の米百俵“であった。修業年限三年の甲種実業学校で、校長は日本染色学界の最高権威者で前八王子染織学校長の中村で、やむなくその年は織物組合立の染織講習所に移行して急場をしのぎ、翌年一から郡立十日町実業学校として再出発することになった。ただ土地柄から織物だけでなく農科も併設され、募集人員は漫科三十名、染織科ミギ名の学校になった。12時より同校講堂に於て挙げらる。学校長の挨拶ありて君が代の唱歌・勅語捧読型の如く。次に証書並に賞品授輿を了(おわ)り、和気校長の訓辞、片山郡長の式辞あり、卒業生総代金高原次郎の答辞、来賓総代として寺沢税務署長の祝辞並に山内本社長の演説の後、修業生を代表して矢口元治の祝詞朗読ありて式を終り、来賓一同並に生徒は各別室に於て祝宴会の催しありて退散したるは午後一時なりき。此日来賓の重なるものは各官街長、地方町村長、小学校長、郡内知名の諸氏並に新聞記者の外生徒の父兄等な町じ。其卒業生は左の如し。O印は優等生、ム印は精勤者。O徳永常吉O樋口孫一郎ム高橋一夫O庭野平太郎O小川芳太郎高橋留蔵南雲賢治小海長成上村安蔵小島直意福崎健一郎小島平八郎星名康計小林佐吉大熊民治鈴木甚治瀧津政義馬場重治高橋清太郎(以上農科)ムO桑原久美O小林勘吾ムO金高原次郎O小海淳ムO桑原満直O村山俊太郎ムO飛永義秋O村山謙吉南雲重保ム瀧津泰治郎庭野伊太郎根津又吉中山周作本田徳一郎ム後藤武村山竹四郎中町恭一根津勇四郎大島巳之一蔵小杉佐一郎池田熊八福崎重兵衛〔以土染織科)。以上三年間の課程を終えた四十一名の卒業生の中には元十日町市長の村山謙吉氏や瀧津泰治郎氏など著名人も少なくない。なお、農科の一、二年在校生は上組農学校や安塚農学校等に編入され、染織科生は新たに設置される県立十日町染聾講習所に入所することになった。173(笠間俊)